鎌倉幕府とかいう空前絶後の多重傀儡政権!〜将軍・執権・得宗専制・内菅領・・・〜

鎌倉幕府、源氏将軍がわずか3代で終わり、直ちに北条氏の執権政治、将軍が傀儡とされるようになりましたが、そのあともどんどん傀儡化が進んでいき、傀儡に傀儡を重ねた空前絶後の傀儡政権と成ってしまいます。

今回はそんな傀儡鎌倉幕府を見ていきたいと思います。

傀儡1 天皇

まず権威の順番的に最初に権力を持たなくなっているのは天皇です。日本歴史上でも摂関政治や院政、武家政治が行われていることが多かったため、天皇自ら権力を行使していた時期というのは実はあまりありません。

天皇が自ら権力を行使してしまうと、大失政を犯したとき、天皇家への責任が追求されることになることになり、革命が起きてしまう可能性もありました。また、権威者が権力を直接行使した場合、海外でいう絶対王政のような富の集中が起こり得るため、これまた革命が起きてしまう可能性がありました。そうなった場合、不安定な政体が続くことになり、民にとってはあまり良いことではありません。

日本が2000年間も一つの王朝でやってこれたのは、ひとえに天皇が権力を行使していた期間が短く、分権されていたということとも言えます。


傀儡2 征夷大将軍

鎌倉時代は、武士の棟梁たる征夷大将軍が権力を握る政治体制でした。源頼朝が存命のときは、自ら政権運営を行っていましたが、亡くなったあと、その子、頼家、実朝が謀殺されてしまったため、源氏の命脈は途絶え、傀儡として、天皇家や摂関家から据えるようになりました。それと同時に、家来筋同士で権力闘争に勝利した、北条氏が権力を独占するようになりました。

執権政治の到来です。

傀儡3 執権

征夷大将軍を傀儡化し、権力を握った北条氏ですが、その勢力はどんどん広がっていき、権力のほとんどを北条氏が握ってしまうようになりました。そういう状況になってくると、北条氏の家族会議で決済が決まってしまうということが起こります。権力者が公的な鎌倉幕府執権ではなく、私的な北条氏家族会議の長となるのです。この状況では執権はもはや北条氏であれば誰でもよく、執権は傀儡と成り果てたのです。

北条氏内のトップは、北条本家、嫡流で得宗家と呼ばれていたので、得宗専制と呼ばれました。

傀儡4 得宗家

得宗家が権力を握る得宗専制が行われましたが、嫡子が幼少期であったり、嫡流のみで権力を紡いでいくのは難しいです。そうしたとき、得宗家の代行者が権力を握ることとなります。

得宗家の執事である内菅領が実際の権力を行使する状況が生まれることとなります。得宗家が傀儡となってしまいました。

鎌倉幕府が滅びたとき、権力を握っていたのは最後の得宗北条高時ではなく、長崎高資でした。

傀儡を重ねると何が問題?

傀儡に傀儡を重ねてしまうと何が問題なのか。民が平和ならなんでもいいじゃんとも思えてきます。傀儡を重ね権力の所在が分からなくなれば分からなくなるほど、責任を取るものが誰だかわからなくなります。つまり政治腐敗が起こりやすくなります。

例えば、鎌倉幕府執権であれば、公的なルールに基づいて役割を果たさなければなりませんが、得宗専制となるともはや鎌倉幕府のルールの枠組みから外れて動くことができるようになります。つまり私的に好き放題政治を動かしやすくなります。問題が起きたら傀儡である執権の首を変えればいいだけですからね。

さらに、その執事が権力を握っていた状態となるとますます好き放題にできるようになってしまいます。権力者が好き放題やってしまうと、民が困るため国が傾く原因となるのです。

鎌倉幕府がわずか140年で滅んだのはひとえに傀儡に傀儡を重ねた責任の所在が曖昧な生体になっていたからと言えます。

元々は、北条氏が将軍家を傀儡とすることで出来上がった権力構造だったので、最後内菅領に傀儡にされ、権力を持って行かれたのは因果応報ですね。

引用元

1: 科学する者 2014/08/02(土) 23:22:15.26
なぜナンバー2が、権力を手中にし、世襲制で天下をとれたのか
さらになぜその異質な体制が維持できたのか
普通、将軍家がTOPで有力家臣団が補佐するのが普通だが
TOPを差し置いて完全世襲の家臣の家が前面に出て天下に号令を
かける・・・なんでこうなったの?

3: 科学する者 2014/08/03(日) 00:00:50.76
鎌倉末期はその得宗家すら傀儡化して内管領の長崎円喜・高資親子が実権を握る有様

4: 科学する者 2014/08/03(日) 00:06:54.98
天皇家に対する摂関家のような関係が鎌倉でも真似をされたのかな?
主君の権力が実務担当の部下に移動してしまうことは世界でもよくあることだろうし。
ただその関係が何世代も世襲されたのは珍しいのかも、他国な主君にとって代わって
新王朝を建てるのが普通だろうし。
日本人は一度出来た体制を例え形骸化したとしても極力壊さずに維持しようとする傾向があるみたい。

7: 科学する者 2014/08/03(日) 15:24:23.92

後の足利将軍や徳川将軍と比較するから異質に見えるけど、
それらは元々自前の軍事力があるところからスタートしていて、
自前の軍事力がないところからスタートした源頼朝とは決定的に違う。

鎌倉幕府は初めから御家人の方が立場が強くて、
その結果将軍は今でいえば、
何とか協会の名誉顧問とか相談役みたいなポジションになった。

御家人が将軍に求めているのは、
貴種であって中央政界に顔が利き、
内部には口を出さないこと。
それが理解できてないと、殺されたり京都に送還されたりする。

時代によって程度の差はあれ頼朝の時から基本は一緒。

8: 科学する者 2014/08/03(日) 15:57:36.02
摂家将軍、宮将軍を推戴するなど京と隔離されつつも付かず離れずの関係を保っていた

16: 科学する者 2014/08/03(日) 16:47:29.96
なぜ北条得宗家と藤原摂関家は似ている。どちらもTOPを傀儡化し
何世代も権力を掌握した

19: 科学する者 2014/08/03(日) 17:26:39.15
源頼朝の外戚とはいえ家格は諸侯と同格の北条家が覇権を確立したのが権謀術数の凄さを物語っている

44: 科学する者 2014/08/13(水) 03:07:24.82
覚海円成じゃなくて貞時正室である宗政の娘が嫡男を生んでいたら安達も復活できなかったろうに
高時の側室になってる御内人の娘が嫡男邦時を生んでいるけど、あのまま幕府が続いていたらいずれ
長崎氏が室町時代の日野家みたいに代々得宗家の外戚になったんだろうな

59: 科学する者 2014/08/14(木) 00:09:20.57
官位に積極的に忌避したのは、得宗家と、右大臣返上後の信長くらいのもんだな。

60: 科学する者 2014/08/14(木) 02:03:10.55
将軍でもない武家で4位なるのって得宗と北条庶流くらいだろ?
足利だって得宗専制以後は5位止まり官位は武家としては高い部類じゃないか?

61: 科学する者 2014/08/14(木) 02:36:41.93
北条は承久の乱で朝廷を事実上滅ぼしたわけじゃん。
大臣にしろとか将軍にしろとか言って断れる状況じゃないんだよ。
現に北条からどんな官位を希望されてもそれに応える気だったって記録がある。
でもしなかったんだよ。四位とか、当時の北条家の力からしたら悪い冗談といえるくらいの低い位だよw

62: 科学する者 2014/08/14(木) 02:48:38.92
官位は関係ないからな

69: 科学する者 2014/08/15(金) 23:44:10.41
承久の乱が起きる前までの北条家なら確かにそうだろうけど、
承久の乱で朝廷を事実上滅ぼしたことで北条義時の権威は頼朝に匹敵するくらい絶大なものになった。
その義時や後継者が高い官位を望んでも他の御家人は別に反発なんてしなかったと思うよ。
高い官位なんて欲しくなかったんだろ。

71: 科学する者 2014/08/16(土) 07:14:45.97
義時・泰時は執権として幕府の主導権を握ったけど、
他の御家人にすれば同輩だから絶対的権威はないのでは?
下文・下知状・御教書といった幕府公文書はいずれも
「鎌倉殿の仰せ」という形式になってるし、執権はあくまで
鎌倉殿の代行・補佐に過ぎない。だからただの飾り物であっても
将軍を必要とした。

84: 科学する者 2014/08/16(土) 22:32:42.53

北条家の官位が低いのは、
あくまで征夷大将軍の家来という建前だから。

鎌倉幕府はだいたい
将軍が二位(二品)ぐらいで執権が四位ぐらい。

室町幕府立ち上げ当初、
尊氏が正二位で直義が従四位だったのは
鎌倉幕府の前例に倣ったものと思われる。

86: 科学する者 2014/08/17(日) 13:24:11.90
藤原摂関家と似たような感じじゃないか?
外戚になったり主君の代理人の体を成して全体を統治するやり方とか
日本に古くからある支配方法だと思うよ。

94: 科学する者 2014/08/17(日) 21:29:34.23

鎌倉時代
天皇-将軍-北条(得宗家)-内管領(長崎)

室町時代
天皇-将軍-管領(細川)-守護代(三好)-執事(松永)

江戸時代
天皇-将軍-大老、老中

102: 科学する者 2014/08/20(水) 00:35:45.09
結局北条氏はなんで滅んだん
新田義貞との戦いとかかなり戦術的な要素も大きいのは分かるけど
後醍醐が蜂起失敗した「天皇(笑)」みたいな雰囲気から数年で激変したのがよく分からん
幕末並みの複雑な心理の変化があったのか?

107: 科学する者 2014/08/20(水) 10:05:30.43
>>102
平氏が滅んだのと一緒。というより明治維新に至るまで時の権力者が転ぶのは
統制力不足が全て。律令体制崩壊後、今に至るまで日本の権力は民事不介入
的態度を取るため地方では紛争の種が絶えないのが常。地方の勢力家は自己保身
や伸長のために中央権力と人格的結合を求めるがそれが難しいとアナザーの権力者候補
と結んで自己の資産の保全を図るのは頼朝や後醍醐(護良)、応仁の乱、両細川、家康を見ればわかる。

111: 科学する者 2014/08/21(木) 12:26:56.35
得宗専制以降、北条以外で四位になった武家って皆無だよな。
将軍や有力御家人は陰謀で滅ぼすし守護職も一門で独占して鎌倉時代って
北条が陰謀と謀略で天下を取ったという印象しかない。

120: 科学する者 2014/08/26(火) 10:05:07.41

鎌倉時代の武士は所領安堵をしてくれさえすればトップなんて誰でも良かった
頼朝の時代は朝廷との二元政治が敷かれていたが義時の時代に起こった承久の乱で
完全に鎌倉主導を勝ち取ったことで北条得宗は武士から信任を得た
短命ではあったが義時・泰時・時宗・貞時など名君揃いであったことも幸いした

滅びたのは元寇による不満と高時個人の資質と後醍醐・足利両者の野心が合致したことによる

125: 科学する者 2014/09/01(月) 11:54:44.63
執権すら庶流が任官して得宗の傀儡になるとか異質だな
少なくても執権位は得宗で世襲しないと駄目だろ

137: 科学する者 2014/09/14(日) 20:05:09.11
北条家の内輪もめは時政、義時の頃からあった。
ただ、外部に対して内通したる裏切るような北条一門は1人も見当たらんのよね。
そういうのが家風って奴じゃないのかな。

138: 科学する者 2014/09/14(日) 20:38:14.56
家風というより、やっぱりもっと現実的な、得宗体制への過剰適応みたいなのがあったんじゃないかな?
安達氏も一緒に滅びてるわけだし。
足利は得宗から独立してやっていける体制があったんだろうね。

143: 科学する者 2014/09/16(火) 23:46:29.85
当時の武家にしたらほんと北条家は珍しいくらい寝返りがないんだよね。
赤橋家に対して足利側から随分アプローチがあったようだが守時はああいう死に方を選んでるし。
やはり前にも書いたけど家風と言っていいと思う。
内紛はするけど、外敵に対しては一致するという点が。

146: 科学する者 2014/09/18(木) 21:33:07.55
宗宣は嘉元の乱で貞時の側近である宗方を討ち取って連署、執権の座を手に入れてるわけで
単なる得宗家の傀儡というわけでもないだろう。

147: 科学する者 2014/09/19(金) 11:28:52.62
>>146
そんなの単なる庶流同士の争いだろ

148: 科学する者 2014/09/19(金) 15:44:03.48
北条って平家だろ。源氏の神輿担いだ後にポイ
得宗も神輿にされ。長崎円喜親子の傀儡

149: 科学する者 2014/09/19(金) 23:13:16.27
>>147
宗方は時宗の猶子、貞時の義弟で庶流ではなく得宗家の一員みたいなもの
さらに頼綱粛清後に内管領に任命されていて師時に次ぐ腹心中の腹心

180: 科学する者 2014/10/13(月) 10:24:33.01

男系で範頼の系統は吉見氏として地方領主で残れたようだが、
中枢の頼朝の源氏鎌倉将軍の男系が途絶えれば満足だったのでは?
貞暁も出家したし。

源氏将軍が一族で殺し合いしてることが多かったのに対して
北条一門は基本的に一族どうしでの争いが少ないのが対照的な気はする。

182: 科学する者 2014/10/13(月) 12:26:15.90

院・朝廷・摂関家・平家・源氏とのリーグ戦で優勝したのが北条氏

治承・寿永の乱とその周辺時代の最終勝者

241: 科学する者 2014/11/11(火) 19:30:08.10
権力闘争はどんな時代にもある。
政権に求心力がないと、権力闘争は室町時代みたいなgdgdなもんになる。
鎌倉時代の権力闘争は承久の乱と幕末除いて所詮宮廷内闘争の域を出ない小規模なもん。
これは一見派手に見える時政、義時時代の御家人どうしでの争いでもそうだ。
鎌倉での数100単位の市街戦だからな。

343: 科学する者 2014/12/15(月) 15:33:05.20
日本の武家は裏切りや内通があるのが普通だからな。
内紛はあれども裏切りや内通がないのが北条家の強みだったんだろうな。

345: 科学する者 2014/12/15(月) 16:02:44.07
得宗権力を確立するための御内人だが最後は鎌倉幕府の実権を握ったのは内管領だからなw

376: 科学する者 2015/02/14(土) 19:43:29.90
せっかく平頼綱を倒したのに結局は内管領に権力が復権するとは・・
内管領>得宗>執権>連署>将軍
後期の鎌倉幕府の力関係はこんなイメージ

385: 科学する者 2015/02/22(日) 20:58:56.88
高時は覚醒するのが遅すぎたとか言われてた気がする
確かに後醍醐帝配流、日野資朝俊基本処刑、高資暗殺企図など
執権だった頃と比べるとかなり強引なことをやっている