後白河天皇(法皇)という平安後期の大天狗!〜皇室幽閉伝説〜

貴族政治では世の中が動かなくなり、権力が武士へと移行していく平安後期から鎌倉時代。

保元の乱や平治の乱、平氏追討など激しい戦争が行われました。

戦争は一度負けると権力を失ってしまいますが、そんな波乱万丈な時代を潜り抜け権力を保持し続けることができたのが後白河天皇でした。

時の権力者になんども幽閉されるなか、生還し続け、

貴族政治が落ちぶれていく中、常に勝つ方に付き続け、最後まで負けることがなく、一定の貴族権力を維持し続けました。

今回は、そんな後白河天皇のお話です。

保元の乱

鳥羽法皇に嫌われ続け、上皇であるのにもかかわらず、権力を行使できなかった崇徳上皇。

永遠の冷や飯食いです。そんな中、鳥羽法皇が崩御したタイミングでここぞとばかりに戦争を起こします。

皇室、摂関家、平氏、源氏、時の権力者たちが入り乱れて家族で権力を争うことになりますが、後白河天皇側が夜襲を仕掛け勝利します。

平治の乱 第一幽閉

保元の乱で勝利した権力者たちですが、勝利後、藤原信西と平清盛は手を組み、源義朝との間で大きな待遇の差をつけられます。

当時上皇になっていた、後白河天皇も、藤原信西を重用していました。

不満を抱いた源義朝は藤原信頼と手を組み、冷遇を生み出した藤原信西をやっつけ、後白河上皇、二条天皇を幽閉してしまいます。

さすがに上皇という立場から殺されることはないにしても、このままだと上皇の立場が危ないです。

そんな時、、、平清盛は見事上皇たちを幽閉から奪還し、源義朝たちをやっつけてしまい、後白河上皇は見事復権を果たすのでありました。


平清盛と手を組むも幽閉される

平治の乱が終わった後、源氏は政権から追い出されることとなりました。平清盛は摂関家、二条天皇と手を組み、後白河天皇と権力闘争することになりますが、二条天皇が早く崩御してしまったため、後白河派につくことになります。

平清盛はどんどん出世し、太政大臣にまで上り詰めることになります。

しかしながら、後白河法皇と次第に対立するようになっていきます。

後白河法皇は平清盛の力を削ぐため、様々な嫌がらせを行ったところ、平清盛はついに怒り、後白河法皇を幽閉してしまいます。

その後平氏追討の動きが活発化し、幽閉を脱出することに成功します。

源義仲に幽閉されるも

平氏を京から追い出した源義仲。最初は悪党平氏を追い出し歓迎されたものの、素行が悪かったため、後白河法皇と対立するようになります。

後白河法皇は義仲ではなく、源頼朝に乗り換えはじめます。

怒った義仲は、後白河法皇を幽閉し、傀儡政権を作り、政を思いのままにし始めます。

その後、義仲は源義経に倒され、法皇は無事幽閉から復帰することになるのでした。

源義経と源頼朝を仲違いさせる

壇ノ浦の戦いで、平氏を滅ぼした源義経。その名声は轟くこと知らずでした。

しかし、このままでは、平氏に代わって源氏が政権をとるだけとなってしまい、後白河法皇にとっては良い状況ではありません。

そこで、後白河法皇は源氏勢力を二分させ、力を殺ぐことを考えます。

つまり、源義経を検非違使という役職に任命したのです。源義経も断れば良かったのですが、うっかり受けてしまい、頼朝の逆鱗に触れることになります。

なぜならば、源義経は、源頼朝の部下であったため、上司である頼朝の承諾なしに官位をもらってはいけないからです。

こうして、義経と頼朝を対立させ、源氏の力を二分することに成功しました。

最後の詰めとして、後白河法皇は、義経に頼朝討伐を許可します。しかしこれは失敗。義経軍は頼朝軍に破れてしまうのでした。

源頼朝の征夷大将軍就任を拒み続ける

源頼朝が征夷大将軍になったのは有名ですが、実は源義経を倒した後すぐというわけではありませんでした。

後白河法皇が頑なにその就任を拒み続けたからです。

武家の棟梁である征夷大将軍の就任を認めるということは、武家の独立政権を認めることとなります。これまで、戦争を行う場合、正当性が必要であり、そのためには常に皇族の命令が必要でしたが、征夷大将軍になってしまうと、独立して戦争を行うことができるようになってしまうからです。

それは権力が完全に貴族から武家に移行することになり、後白河法皇にとって譲れるものではなかったのです。

結局、源頼朝が征夷大将軍になったのは、後白河法皇が崩御した後のことでした。

以下まとめ

2: 科学する 2011/09/07(水) 11:14:27.69
大天狗=マキャベリスト、という解釈でいいのだろうか?

3: 科学する 2011/09/07(水) 13:58:45.22
後白河に政治手腕があったかどうか謎である。そもそも登極自体が中継ぎであり、
在位2年で退位させられた後は、二条帝親政派との軋轢に懊悩し、二条夭逝の
幸運の後は清盛の政治壟断、院政停止の憂き目に二度も遭っている。
むしろ政治面よりも天皇家の荘園を集中し、経済的に生き残ることに成功した
手腕を評価すべきである。お手本は保元の乱後の藤原忠通による摂関家領の防衛行動だろう。

11: 科学する 2011/09/12(月) 17:39:27.42
記憶力は凄かったらしい。

17: 科学する 2011/10/07(金) 13:35:22.31
歌が好きなことは良いことです。

20: 科学する 2011/10/19(水) 10:15:47.33
>>17 だけど、深夜にどんちゃん騒ぎして崇徳帝に迷惑かけるのイクナイ

22: 科学する 2011/10/19(水) 12:07:31.95
>>20
「梁塵秘抄」で後白河法皇は自分が今様好きになったのは
晩年不遇であった母待賢門院が寂しさを紛らわせるために好んだ影響
だと言ってるんだよね
晩年の待賢門院、帝位につけない四男坊の後白河、
この2人の境遇には共通点があったのかもしれない

23: 科学する 2011/10/19(水) 23:26:06.92
>>22 鳥羽上皇は待賢門院が死んだ時号泣したらしいじゃん。不遇だったの?

25: 科学する 2011/10/21(金) 08:49:04.37
>>23
待賢門院は鳥羽上皇から美福門院と近衛天皇を呪詛した疑いをかけられて
強引に出家に追い込まれているよ
鳥羽上皇は晩年美福門院と一緒に離宮の鳥羽殿に住んでいたが
待賢門院は実兄の三条高倉殿に住み鳥羽上皇と別居していた
待賢門院の死後普段は住んでいない三条高倉殿に駆け付けたんじゃなかったっけ

18: 科学する 2011/10/19(水) 01:12:15.45
権力闘争をくぐり抜けたのだから相応の政治力は持ってただろうが
結局は美福門院、平清盛、源頼朝などに翻弄された印象だな

32: 科学する 2011/10/22(土) 20:09:50.75

日本史上での後白河の功績ってなに?

頼朝が武家政権で高評価を受け
後白河は保守反動扱いにされがちだが

33: 科学する 2011/10/23(日) 10:53:00.29
>>32
後白河がいなければもっと天皇家の地位低下は早かったと思うけどな
・天皇家に代わり政治を牛耳った摂関家から天皇家家長(上皇)の手に
政治を取り戻し新たなパートナーとして平氏を選んだ
・平氏も台頭しすぎて第二の摂関家になろうとすると
源氏に上洛を命じて平氏を追討した
・源氏にも追随せず頼朝の征夷大将軍就任を阻止した
武士の台頭が顕著だったから朝廷の政治が失速したように見えるけど
逆に朝政の主導権は摂関家や平氏ではなく天皇家家長である自分にあることを結論付け
頼朝を関東にとどめて朝廷の政治には一切口出しさせなかったことから
都における天皇家の地位は摂関全盛期などよりずっと高かった

45: 科学する 2011/11/01(火) 03:17:11.82
もし二条が後白河を飛び越えて即位したら、後白河は院政敷けるの?

46: 科学する 2011/11/01(火) 17:53:08.18
>>45
承久の乱の後、鎌倉幕府によって後堀河天皇(後鳥羽上皇の孫王)が立てられた際、
後堀河天皇の父守貞親王(後鳥羽上皇の皇子)は即位したことがないにもかかわらず
後高倉院の院号を受けて院政を取っている。

76: 科学する 2011/12/24(土) 23:12:14.33
後白河帝の今様狂いって、
今で言えば陛下がロックに夢中になるようなもの?

80: 科学する 2011/12/25(日) 12:11:43.65
>>76
「今様」という言葉自体は「今はやりの歌」ぐらいでジャンルは問わないが、
当時の今様の第一人者は白拍子と呼ばれる遊女集団だった。
今でいうならキャバ嬢たちを自宅に招いて
毎日一緒にカラオケやってるみたいなもんか。

103: 科学する 2012/02/05(日) 17:42:41.31
白河と後白河は時代的に近い。醍醐と後醍醐は400年くらい、陽成と後陽成も700年ほど離れているのに、問題なかったんだろうか。
誰がどういう理由で決めたんだろう。

107: 科学する 2012/02/06(月) 11:08:23.18
>>103
どういう理由で決めたか
白河・後白河←どちらも院御所として白河院に住んでいたことがある
醍醐・後醍醐←醍醐寺を創建した醍醐天皇は聖帝とされたために後醍醐が生前からこの天皇号を名乗った
陽成・後陽成←後水尾天皇が不仲だった父に悪帝とされる陽成からとった号を贈ったらしい

160: 科学する 2014/05/07(水) 15:40:21.17

後白河を「暗愚である」と痛烈に批判していた上級公家は九条兼実」だっけ?

で、「後白河には美点が2つだけある。記憶力が非常にすぐれていることである」
と言っているが、もうひとつの美点はなんだっけ?

162: 科学する 2014/05/15(木) 05:33:40.10
>>160
仏教への傾倒を梁の武帝に擬えて皮肉ってたような
まあ色々軋轢あったからな

168: 科学する 2014/11/30(日) 19:13:53.83
平治の乱の後に、権大納言の徳大寺公能が藤原重通・藤原宗能(両名とも中御門流)を超えて
いきなり右大臣になってるのがよく分からない。公能は忻子(後白河中宮)と多子の父だけど
美福門院に近い中御門流が割を食ってるから、後白河による引き立てと見るのが妥当かな?
左大臣の藤原伊通(中御門流)も、同時期に名誉職の太政大臣に棚上げされてる。

169: 科学する 2014/12/03(水) 19:00:19.40
>>168
平治の乱の翌月に二条天皇は多子を後宮に入れているから
その実父徳大寺公能を右大臣登用したのは二条天皇だろう
(多子の二条入内が1160年正月、公能右大臣昇進が1160年7月)
伊通の代わりに左大臣となった関白近衛基実は二条天皇の中宮となる育子の兄だし
二条天皇に近い立場にあったとみられる

170: 科学する 2014/12/03(水) 21:31:35.74
>>169
うーん、藤原経宗・惟方が配流されて親政派が弱体化してる時期なんだよね。
二条天皇が政治の主導権を握るのは、この翌年に院近臣を解官してからだから
この時期の人事は、後白河の意向を二条が受け入れたような感じがする。
閑院流は待賢門院の実家で、後白河にとっては身内だし。

171: 科学する 2014/12/05(金) 14:57:08.50

>>170
徳大寺公能は後白河のいとこの一人とはいえあまり後白河に近くない
後白河が公能に近いなら後白河は中宮忻子をもっと珍重しただろうが
忻子は里にあることが多くずっと後白河と不和だった

もともと後白河は二条天皇を推す美福門院にわずか2年で退位させられたこともあり
二条天皇とはあまり仲が良くない
後白河排斥と二条天皇親政を狙う経宗・惟方が配流されていた時期ではあるが
二条天皇が後白河院政下に組み敷かれていたわけでもない

後白河が不和な皇后忻子の父を優遇したというよりも
二条が二代の后の批判を恐れずに再入内させた多子の父を優遇したとみるべきだろう
もともと二条天皇が公能を味方に引き入れるための政略結婚だったともいわれている

178: 科学する 2015/01/31(土) 23:02:34.75

姝子内親王が上西門院の猶子になったのは、待賢門院の所領を姝子が相続し
いずれは夫である二条天皇に引き継がせるという計算もあったのかな。
八条院領も二条天皇に譲られたら、待賢門院と美福門院に分割されていた
荘園を一つにまとめることができる。

でも二条天皇の早逝で予定通りに事は進まず、待賢門院系(長講堂領)と
美福門院系(八条院領)の分裂が固定化し、持明院統と大覚寺統の対立に
つながっていった。

179: 科学する 2015/02/18(水) 16:04:08.11

>>178
鳥羽院が亡くなった時、遺領は鳥羽殿で同居していた美福門院や八条院には分配され
鳥羽院領と美福門領の双方を八条院が相続して八条女院領となったが
別居の身だった待賢門院には分配されなかったので待賢門院領というのは規模が小さい
しかも待賢門院が晩年に創建した法金剛院に寄進していたはず

長講堂領は待賢門院領が前身になっているのではなく
後白河法皇領が前身になっている
これは後白河法皇自身が保元の乱に勝利した時に
藤原頼長の没官領を手に入れて形成されたもの
後白河法皇の死後はその皇女・宣陽門院に譲られている

引用元

波乱万丈な後白河法皇でした!何回幽閉されとるねん!って言いたくなりますよね@@