豊臣秀吉の天下統一物語!出世具合を日本地図で見た結果!!

秀吉の生まれは、半農半士だとも、農民だったとも言われますが、そんな最下層身分から天下人にまで成り上がった、日本歴史上最大の出世頭です。日本歴史でいえば、小学校卒の身から総理大臣までたどり着いた田中角栄などがいますが、いやいや根本的に時代が違います。

負けたら死んでしまう、生き残るだけでも大変な戦国時代で上がりきったというのは、やはり全然レベルが違います。

歴史上に秀吉という人物がいるだけで、我々後から生まれた人達は、どれだけ辛くても、頑張れば輝ける。そういう価値を生み出したことが最大の功績ではないでしょうか。
さてさて、そんな天下の豊臣秀吉ですが、今回はその出世具合を地図で見ていきたいと思います!

参考資料


1550年。この頃秀吉は14歳。今川義元の家臣の家臣の家臣だったと言われています。そしてとても優秀だっただけにいじめられたとも。まだまだ地図上に点すら表示できない身分だったのですねー!松平はこの時期すでに今川の配下となっていたようです。

1554年。この頃、秀吉は織田信長の元に転職したと言われています。草履取りから始まる出世物語ですね!まだまだ信長は織田家の後継争いをしていて、尾張の半分も持っていなかった頃ですね。こんなボロボロの時期に、信長に仕えたのは物凄い運の巡り合わせだったように思えます。まさか天下一歩手前まで行くなんて、秀吉含め誰も思っていなかったでしょう。

時は流れ1565年になります。長い月日が経っていますが、まだまだ信長も尾張一国を抑えたところでした。この頃になると、墨俣一夜城の話とかが出ており、蜂須賀など自前の配下を持ち始めていきます。この時点ですでに信長の有力武将の一人だったとも言われています。

1568年。3年の間に一気に信長領が広がります。斎藤を倒し美濃を治め、その勢いに乗って三好三人衆を追い払い天下の京を手中に収めました。この頃秀吉は、光秀とともに、京都で政務を行っていたと言われています。

1570年。信長包囲網が始まります。浅井が裏切り朝倉が朝倉に囲まれ、本願寺、三次などなどその他いろいろ周りのものを皆敵に回します。そして信玄も・・・。こんな状況下でも信長について来る人たちはたくさんいたわけで流石といえば流石ですね。秀吉しかり、家康しかり。特に家康なんてこの時点でいつ裏切ってもおかしくないのになぁ。。。

1573年。信玄が倒れます。これにて信長包囲網は崩壊します。機内をバッチリ押さえているのがわかりますね!

一方、秀吉は、浅井攻めの功績が認められついに長浜城城主となります。地図上に秀吉が登場した瞬間です!

時は飛び1580年。秀吉は毛利攻めに取り掛かるため、播磨を平定し、播磨一国を与えられます。この時点で秀吉の知行は50万石だったとも言われています。

1582年。武田家崩壊です。この時点では、まだまだ島津も伊達も北条も弱く、天下が確定したようなものでした。

秀吉は、毛利を攻めの真っ最中、信長本体の援軍要請を行っていたところ・・・

本能寺の変が起きます。そして、瞬く間に光秀をやっつけ、機内をほぼ平定しました。50万の知行から一瞬で機内を手中に。はてさてどんな気持ちだったでしょうね。柴田勝家は敵になってしまいましたが、精力的には圧倒的に秀吉有利なのがわかりますね。なおどさくさに紛れて、家康や北条も領土を拡大しています。

柴田勝家を倒し、信長家臣権力闘争に秀吉は勝利します。そしてここからは・・・1年ごとに、、、

中国、四国の、毛利、長宗我部を支配し、

3年の間に徳川を臣従させ、

わずか1年の間に九州を征服し、

さらに2年で北条を取り囲みます。この頃伊達政宗はまだまだ諦めずにうろちょろしてますが、どう見たって無理難題であることがわかります。秀吉の20万の大群を見て戦うのを諦めたのは当然と言えば当然でしょう。

伊達ついに屈服。

そして天下統一です。

信長に仕えて28年、本能寺の変まででやっとこさっとこ50万石ぐらいだったのが、そこからわずか9年で天下人となりました。激動の人生とはまさにこのことですね!



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