絶対戦いたくない薩摩藩とかいうチート戦闘民族www 〜勝ち続けた島津の歴史〜

鎌倉時代に誕生し、戦国時代を乗り切り、幕末には倒幕の中核となった薩摩藩。それだけに数多くの逸話が残されています。

いやいや、本当にすごいんですよ。薩摩藩は。今回はそんな、チートな薩摩な部分をまとめてみました!

九州制圧まで後1歩

戦国時代、信長が機内を制圧し、天下統一に待ったをかけていた頃、島津はようやく、九州の半分を制しかけたところでした。

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このままの勢いだと、あと数年で、島津は信長に飲み込まれて、しまうところですが、本能寺の変がおき、織田家が分裂している間に九州の領土を広げていきます。秀吉が惣無事令を出し、大名同士の私戦を禁止するものの従わず、九州平定まであと一歩という状態でした。

残念ながら、秀吉が乗り込んできたため、太刀打ちすることができず、薩摩一国まで領土が削られることとなりました。とはいうもの、なんとか和議を結ぶことに成功し、取り潰しを免れることとなりました。


朝鮮出兵無双

時は朝鮮出兵。島津義弘は20万の大軍を7000の寡兵で打ち破り、敵兵を38717人討ち取ったと言われています。あまりの恐ろしさに、敵側から、鬼島津と呼ばれたという記録が残っています。

捨てがまり

関ヶ原の戦いで、成り行きで仕方なく、西軍につくことに島津義弘。そんな中、石田三成は敗北し、西軍の敗北が決定的となりました。結果、右も左も前も後ろも全て敵という最悪の状況に陥ります。

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そこで、島津義弘がとった行動は・・・

敵の少ない方、すなわち西側へ逃げるのが常識的な逃げ方ですが、その時義弘は、最も敵の勢いが強い、敵の密集している方向へ突撃するということだったのです。

決死を覚悟した島津義弘隊は、敵陣を全て抜けることに成功し、家康本陣目の前までたどり着きました。そのまま家康本陣へ突撃するのかと思いきや、急迂回し、南側へ逃げ延びました。この時、東軍の追撃隊がやってくるものの、捨てがまりという戦術で撃退しました。

捨てがまりは、逃げる兵の中から、わずか数人だけが残り、壁となり、敵の進軍の時間稼ぎをするというものでした。捨てがまりに選ばれた兵たちは、死ぬまで戦うことになるのでほぼ間違いなく死ぬことになります。そして、その数人が倒れ、敵がさらに追撃してきたら、さらに別の数人が盾となり足止めをする。まさに決死の戦術で、トカゲの尻尾切り戦術、戦国的神風特攻隊といっても良いでしょう。

この時、島津は甚大な損害を出しましたが、追撃部隊も大損害を出し、追撃を諦めることとなりました。あの、松平忠吉、徳川四天王の一人、井伊直政なども負傷することとなり、その負傷が原因で数年後に亡くなることとなります。

撤退開始時、わずか300の兵しかいなかった、大将島津義弘は薩摩まで逃げることに成功しました。薩摩までたどり着けたのはわずか80人ばかりだったと言われています。

関ヶ原の戦後交渉

さてさて、なんとか関ヶ原を脱出したものの島津家は負け組、西軍についてしまった以上、このままでは取り潰しです。しかしながら島津は徳川の圧力に怯まず、徳川の通商船を撃沈するなど、徹底抗戦の構えを取りつつ、和睦交渉に臨みました。

ここで面白いのが、関ヶ原で負傷させた井伊直政に仲裁を頼むというもの。敵と書いて友達と言うのでしょうか。それが功を奏し、1年ぐらいの交渉期間を経て、結果的に和睦は成立し、島津家は減封もなく、お咎めなしとなりました。

西軍大将の毛利輝元は形勢が決まったとたん、直ちに和睦をしてしまいましたが、こちらは取り潰しとなりました。(家康に内応していた吉川広家の手柄を毛利家に分配したので完全な取り潰しは免れたが120万石→30万石)

同じ負け組でもまったく異なった結果を招いたのは興味深いところです。

薩英戦争

時代は一気に飛び、幕末期に入ります。

島津久光の行列に乱入したイギリス人を殺傷した生麦事件で、薩摩とイギリスは対立することとなりました。イギリスはその賠償金として、幕府から10万ポンドを受け取りましたが、その子分であるはずの薩摩は一向に支払う気配がない。イギリス艦隊は、賠償金を支払わせるために、薩摩汽船3隻を掠奪し、挑発行為を行いました。すると、薩摩はあろうことか、当時世界最強出会ったイギリス艦隊へ攻撃を仕掛けることになりました。そもそも大砲の射程距離が全然違うので、イギリス艦隊は射程外から攻撃していれば、無傷で勝てるはずの戦いでしたが、油断していたため旗艦艦長が戦死するなど大混乱。そのまま和平交渉となりました。

和平交渉の結果も面白く、

薩摩は英国に賠償ではなく見舞金として2万5000ポンド支払う→幕府から借りて踏み倒し

生麦事件の加害者の処罰→逃亡中として処罰されず(もちろん犯人は知っている)

と、薩摩はイギリスの体裁を整えただけで、何一つ失ってところ。この後、これまた敵と書いて友と読むのか、イギリスと薩摩は接近し、武器貿易を行う関係となっていきます。

倒幕

将軍中心の日本か、天皇中心の日本か、日本国全体の方向性の違いから、薩摩は幕府と対立するようになりました。薩摩は長州と薩長同盟を結び、見事天下の幕府軍を倒してしまったのです。

西郷隆盛の西南の役

ここまで読むと、あれと不思議なことがあります。薩摩って勝ちすぎじゃね?と。

そうなんです、勝ちか言えるか怪しい戦いも多いですが、少なくとも負けてはいません。

勝ち続けるとよくないものでやはり調子に乗ってしまいます。

特に明治政府は革命政府であったため、立役者であるはずの、新しい既得権側でこれから甘い汁を吸う立場であるはずの薩摩自身にも鞭を打つ、厳しい政策を行い続けました。

負け知らずの薩摩が憤慨し反乱を起こしたのは無理もありません。猛りを沈める必要があったのです。

維新の三傑・西郷隆盛は西南の役を引き起こし、猛りを沈める人柱となりました。

今も昔も変わりませんが、やっぱり田舎って強いですよね。豊かな都会にいるとどうしてももやしになってしまう、優雅だけど精神的に脆い。そんな田舎の底力を見せてくれるのがまさに薩摩のように思えます。

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コメント

  1. 名前:匿名 投稿日:2017/08/02(水) 22:20:26 ID:3f3bb9b4d 返信

    人生で大事なことは勝つことじゃなくて負けないことかもな

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