戦国最強の武将・武田信玄

武田信玄

戦国最強だったと名高い武田信玄、家康をボコボコにし、信長を追い詰めるもあと一歩のところで天寿を全うしてしまい、天下を取ることのできなかった無念な武将でもあります。

結局信長に負けないまま終えてしまったため、伝説を残したままでありました。

そんな信玄の伝説は本当なのか?まとめてみました!!

1: 菅沼遼太 投稿日:2016/01/30(土)20:22:39 ID:Se7

武田信玄
戦国時代の戦国大名。日本史上、有数の暴君。
あと少しで信濃統一を果たすところまでいくが上杉に阻まれる
同盟や和睦をやぶるなど謀略を尽くしての領土を拡大し、奪った領土からの略奪により家臣や国内をまとめあげた。
しかし、国境を接する弱小豪族をすべて倒したあたりから領土拡大に急ブレーキがかかる。
このような相手国からの略奪によって家臣や国内の領民の不満を封じこむやり方は、領土拡大のペースが落ちると家臣や国内の不満を生むこととなった。
息子である勝頼は家臣や領民の不満を封じるため、無理な拡大路線を強いられることとなった。
また、信玄の度重なる外交に関する不義により武田家の他国への信用性はゼロに等しいこともあった。
その結果、勝頼は、他国との連携作戦もできずにやがて孤立していくこととなる。
結局、勝頼は父親の残した大きな負債を払拭することができなかった。
そして、武田家は一回の合戦で戦闘力を失い、たった一ヶ月で滅亡した。
織田信長が倒した戦国大名の中では武田家はもっとも労を要しない相手だった。

・平和な甲斐に生まれる(父親、武田信虎の功績により甲斐の国主=武田の状態が確立)
・家督争いの引き金になる弟が、信玄に無条件で忠義を尽くしてくれる
・偉大な権力を持っていた父親が、自分で身を引いて信玄に全権譲渡
・重臣の中で権力を持っていた板垣と甘利が勝手に自爆→信玄にやりたいように政治ができる

ここまで恵まれた相続を行いながら戦って滅ぼした主な相手は

諏訪頼重
高遠頼継
村上義清
大井貞隆
小笠原長時
笠原清繁   →  全て足して約40万石

戦国好きですら信濃豪族の勢力を全て網羅している人はそういないだろう
名前の残らない無名勢力を滅ぼしただけである

今川氏真   →  遠江一部、駿河で約40万石、しかも追い詰めたのは家康

地方の弱小豪族相手に二度も死に掛け(上田原、砥石崩れ)、川中島では弟信繁を討死させ(自身も負傷)
莫大な犠牲と長い年月を費やし、まさに死ぬおもいで弱小豪族達から掠め取ったのが信濃一国(一部北信は除く)
その後は西上野の弱小豪族から領地を強奪、さらに弱体化しきった今川を若輩徳川家康と共同攻めも
逆に徳川と北条に挟撃されるまぬけっぷり
西上作戦では、三方ヶ原で織田徳川連合軍を壊走させたが、何故か滅亡寸前の織田を放置
徳川領の野田城、長篠城を落として、そのまま敵に後ろを見せる形で撤退し浅井・朝倉を見殺しにしてしまう
これが災いして、信玄没後僅か9年で名門甲斐武田氏は、西上作戦時滅亡寸前だった織田によって速攻滅ぼされる


18: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/02/01(月)04:12:45 ID:AEu
おんなじような地方成り上がりって考えると(単純に比べられないけど)毛利かな
ただ、天下へのチャンス度だと毛利以下だよね。
二度もチャンスを逃してる毛利も大概だけど
5大老の毛利と比べるのは酷かもしれんが比べてみて中央への関わりが少ないというか(もちろん大膳大夫の官位もってたりするから無いって訳じゃないけど)
やっぱり地方大名だなという感想が出てくる
自分の領地を守れれば良い、中央の権力者と取り入ってでも領地守れればいいや的な、自ら京へ行って将軍を立てたり天下人になるというイメージはないなー大体9~8割くらいの戦後大名はそうだろうけどね
(管領上杉が来たときの佐竹みたいな)

31: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/02/01(月)04:50:19 ID:MLD
>>18
当時は東国世界と西国世界に別れてて、
武田は東国の覇権を目指して戦った勢力だったわけで、
西国世界が中央ってわけでも必ずしもないですよ。
武田信玄やら毛利元就やらの時代には、そもそも「天下」というのは
畿内一帯を指してただけの事ですしね。それが後になってどんどん変化してっただけの話で。

58: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/02/03(水)14:40:51 ID:QmN
武田信玄は織田信長を倒せない。せいぜい一地方大名

66: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/02/04(木)12:27:01 ID:zpJ
>>58
上の人も言ってますが、普通に勝てるんじゃないですかね。
信玄西上当時の情勢からしてみれば、信長公記にすら「方々手塞がり」と
書いてあるくらいに信長は絶対絶命ですし、戦略的にも不利ですし。
信玄にあと寿命が一年もあれば、少なくとも信長畿内覇権は
儚く消えた可能性が高いと思いますがねえ。

60: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/02/04(木)03:32:25 ID:TB1

大体、桶狭間や美濃攻めの時からそうだけど、
信長って戦争強くないんだけど。
伊勢長島一向一揆相手では、一門親族重臣が何人も討たれてるし、
武田の二倍以上の軍勢と大量の鉄砲を引き連れておきながら、長篠合戦では【6千人】の戦死者を出す始末。

無能な斎藤龍興や朝倉義景ですらなかなか倒せず苦戦を強いられ、
小谷城一つに引きこもっていた浅井長政ですら、武田信玄及び朝倉義景存命中には倒せなかったのが信長。

67: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/02/04(木)12:29:45 ID:zpJ
>>60
同意ですね。信長は敗戦が数十敗に及びますのに、
なぜかカス子さんのような方は信長が不敗の戦術家でないとお困りのようで。
信長は明らかに戦術家というより戦略家な感じですけどねえ。それでも信玄西上の時は戦略的に不利に追い込まれてましたが。

136: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/02/08(月)12:49:11 ID:tUC
信長公記に記載されてる信長のピンチのトップ3て何だっけ
たしか金ヶ崎の退き陣と志賀の陣ともう一つ
どれも信玄とはまったく関係ない戦いでやっぱり信長は信玄なんか眼中になかったことがよく分かるよなw

144: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/02/08(月)13:20:43 ID:VVF

やっぱり包囲網を使わないと倒せないじゃないか…

倒せた倒せたいっても単独でないと確実に上って言えなくね?

153: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/02/08(月)15:10:19 ID:Z7I

>>144
【信長が信玄との決戦を明らかに避けていた】

この一事だけで、力関係は明らかだし、信長が信玄を恐れに恐れていた事もよく解る。
例えば、同盟者の松平元康(徳川家康)と武田信玄の仲が、今川領土の分配を巡って破綻した時など、
信長は同盟者の徳川家康の肩を持たず、武田信玄に対してわざわざ貢ぎ物を送って「中立」を宣言している。
実際、この時期の信長は家康に援軍の一兵も送ってないし。

織田と武田の間が手切れになったのは、信長の比叡山焼き討ち及び皆殺しという措置に信玄が激怒した事、
そして足利義昭からの上洛要請が有ったから。

そしてようやくこの頃から、信長は家康に援軍を送るようになったが、
三方原の戦いでわずか3千人、しかも信長自身の出馬は無しという、
明白に武田信玄との正面決戦を避けている姿勢だった。

信玄の死後も、確実に信玄の死が確認されていない限り、行動に出ていない。

154: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/02/08(月)15:12:46 ID:Z7I
信長公記に武田信玄の記載が少ないのも当たり前の話で、
信長自身が武田信玄との決戦を避けていたのだから、戦う機会などほとんど無かっただろ。
三方原に従軍した織田家の武将は、平手は戦死、水野と佐久間は粛清されたから織田側から見た正確な実状は解らないし。

196: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/02/11(木)10:51:40 ID:uvj

歴戦の将、そしてそれなりに強いと戦国時代、定評を受けていた三河武士の頭、徳川家康を、
三方原で大破した上に壊滅させ、脱糞逃走という惨めすぎる行動をさせ、何度も死を覚悟させたというだけで、
武田軍の強さ、信玄の采配の鋭さは証明されているじゃないか

それに、決して弱将じゃない北条氏照、北条氏邦などが追撃してきた、
戦闘の中でも非常に難しいジャンルの「撤退戦」であった「三増峠の戦い」でも勝利してしまう程、
武田軍や武田信玄は強かった事は、最早否定しようの無い事実。

同じ「撤退戦」を越前金ヶ崎で行った織田軍は、
「金ヶ崎崩れ」と呼ばれる程の惨めな醜態を晒したんだが?
しかも無能、暗君で有名な朝倉義景相手にw

どこをどう見れば、織田信長の方が武田信玄より上なんだよ?

199: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/02/11(木)12:53:42 ID:uvj

結局、織田信長のやった事で、まともだった事、評価に値する事って、
「楽市楽座」
「関所の撤廃」
「宗教勢力の排除」
くらいな物じゃねえの?

それでも、「楽市楽座」政策は、別に織田信長の「独創」じゃないし、
「関所の撤廃」は、内政下手だった信長には、江戸幕府のようなガッチリした厳しい関所作りなど出来なかったというだけの話かも知らん

結局、
「宗教勢力(特に本願寺)をねじ伏せた」
以外の、特筆すべき功績がみあたらないんだよな

333: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/02/17(水)23:39:41 ID:uvS
織田信秀は確かに20万石の石高があったな
ただ信長が後を継いだ直後に織田家自体が分裂状態となり
信長が相続できたのは那古野城とその周辺のみ
その直後の戦いでの動員兵力から多く見積もっても5万石になってた。

630: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/02/23(火)13:48:03 ID:v6u
西上作戦は、「遠江・奥三河での領国拡大」「徳川の殲滅または臣従」「上洛を目指して
途中で織田を打倒」どれが狙いだったんだろうね

636: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/02/23(火)15:43:33 ID:fTi

>>630
全部両立出来ないの?

徳川家は「次、武田に負けたら織田から離反しよう」とか申し合わせてたそうだし、
自慢の嫡男、信康の籠もる、そして自らの発祥の地である岡崎城か、三河・遠江間を連絡する吉田城が落ちれば膝を屈するしか無い
落ち目(に見えた)の織田家の為なんぞに滅亡するまで義理を尽くす義務など、戦国大名に無かったし

つまり、遠江や三河の領土拡大は徳川家康の臣従、降伏に繋がるし、
徳川の降伏は、一切の邪魔なしで武田信玄が織田信長と決戦に挑める事を意味する

西からは浅井・朝倉が、
南からは長島一向一揆と徳川家康、及び武田家別働隊が、
東からは武田信玄本隊が押し寄せれば、もはや織田信長に打つ手は無い

「同時進行」でなくとも、東から攻めたかと思ったら西から攻め込み、
西に軍勢を向かわせれば南からひっかき回すという、徹底的に織田家を疲弊させる作戦を採られるだけでも、
織田家にとっては非常に困る展開に陥った事は間違いないんだよなあ

654: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/02/24(水)04:59:33 ID:fTn
>>630
西上の時に、信玄自身が美濃侵攻して織田を撃滅する為に
朝倉や浅井や長島や本願寺やその他に対して連絡を取り合い、
1573年の春から美濃に侵攻して、織田に対する一斉攻撃を行おうとしていた様子が
書状からうかがえますし、京都の方から制札をくれ、と言ってきた神社の人に
「近江まで行ったら制札あげるね」とか言ってますから、
少なくとも織田を倒す、もしくはその勢力を削減する、って事が目的だった事は明らかなように思いますねえ。

692: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/02/25(木)22:16:01 ID:IXk

そもそもなぜ秀吉が宗教勢力から刀狩できたかを考えなよ
信長の攻勢により兵力、城、土地、財力を失い
刀狩を拒否する力を失ったため秀吉に従わざるを得なかった

もし信長がいなかったら刀狩は拒否され宗教勢力は力を持ったままだっただろう
ちなみに信長も少しずつだが領地で刀狩を広げていたな
刀狩は秀吉のオリジナルではない

913: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/03(木)23:23:23 ID:OCr

1573年で比べると
武田信玄は30年で25万石から100万石
信長は20年で5万石から250万石まで広げてる

偉く領土拡張の早さが違うねえ

946: 名無しさん@おーぷん 投稿日:2016/03/05(土)10:59:48 ID:qnM

毎年飢饉が当たり前の甲斐国と、
港まで保有して豊かだった尾張半国と、

経済力の面から全く比較にならないと思うがな

織田信長が5万石スタートとか、
信長自身の振る舞いのせいで多くの家臣に愛想を尽かされただけで、
元々は尾張半国、25万石スタート

どっちもどっちだろ

引用元: http://www.logsoku.com/r/open2ch.net/sengoku/1454152959/ 武田信玄は過大評価されすぎ part3

戦国時代って結局自分の生きている間に天下統一して平和を維持できていない限り、いくら名を馳せた人でも1代で終わっているので、そういう意味では、信玄は動くのが遅すぎたのが全てじゃないかなぁとも思いますな。

コメント

  1. 名前:ななしさん@スタジアム 投稿日:2017/11/04(土) 19:41:56 ID:5e46e1005 返信

    信玄は古来の戦い方から脱出出来ない古い大名の一人に過ぎなかった。つまり、戦地に赴いてはそこで強奪強姦を繰り返し、農繁期には兵の大半は地元へ戻って百姓をしていた、よって兵士と農家を分離していた信長はずっと武田より有利な戦いができたのである。
    また、武田軍は食料は現地調達であったため、農家に忌み嫌われていて戦いの情報等は織田軍に比べればずいぶん劣っていた。当時の戦いは農家に見捨てられれば情報伝達は遅れ、自滅する憂き目に逢っていたと思われる。それに比べれば織田軍は食料は全て金を払って調達したし、現地では強奪、強姦を禁止していたので、農家に抜群の人気があったので情報収集に抜群の冴えを見せていたので例え武田軍が終わりにで張っても織田軍に勝つことは困難であったと思われる。

  2. 名前:ミーミー 投稿日:2017/11/04(土) 19:42:22 ID:5e46e1005 返信

    信玄は古来の戦い方から脱出出来ない古い大名の一人に過ぎなかった。つまり、戦地に赴いてはそこで強奪強姦を繰り返し、農繁期には兵の大半は地元へ戻って百姓をしていた、よって兵士と農家を分離していた信長はずっと武田より有利な戦いができたのである。
    また、武田軍は食料は現地調達であったため、農家に忌み嫌われていて戦いの情報等は織田軍に比べればずいぶん劣っていた。当時の戦いは農家に見捨てられれば情報伝達は遅れ、自滅する憂き目に逢っていたと思われる。それに比べれば織田軍は食料は全て金を払って調達したし、現地では強奪、強姦を禁止していたので、農家に抜群の人気があったので情報収集に抜群の冴えを見せていたので例え武田軍が終わりにで張っても織田軍に勝つことは困難であったと思われる。

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