真田昌幸という戦国の大謀将www

真田昌幸

真田丸の事実上の主人公である真田昌幸。子供は真田幸村で、徳川家康を追い詰めたことで有名ですが、その父自身も、徳川、上杉、北条と峡谷に囲まれながらも、戦国時代を最後まで渡りきることができた名将でありました。

そんな真田昌幸の評判についてまとめてみました!

8: ふぉりなーず
外交は上手かったんじゃないの?

9: ふぉりなーず
家康をブルブルさせたんだから、それで十分。

62: ふぉりなーず
武田→織田(滝川)→北条→徳川→上杉→豊臣
たしかに5回やってるな。表裏比興

74: ふぉりなーず
自領に大軍を呼び込んで撃退するには
民の支持は必要要素だろう。良い治世だったんだろう。

132: ふぉりなーず
信玄以外、徳川軍に2回勝ったのは、真田家しかいません。
完全な勝利ではないという向きがあるかもしれませんが、1次、2次上田合戦ともに真田勢は2千あまり、
対する徳川は1次が1万で、2次が3万6千ということを考えれば、完全勝利でしょう。
1次が1580年代半ば、2次が1600年の出来事であるならば、1615年頃には「伝説化」しております。
安房の守が大阪城に入城した場合の大坂方の衝撃度は幸村の10倍はあるでしょう。
「ああ、この方が古くは軍神武田信玄に仕え、徳川家を2度も破った伝説の将か・・・」てな感じになって、
大坂方でも破格の扱いをうけるでしょう(幸村でさえ一手の将をまかされた)。


134: ふぉりなーず
>>132
豊家の名にすがった者どもが
信濃の小大名に仕切らせるかな?
勝つことが目的だったわけでも無さそうだし。真田太平記では信繁が、
家康の代わりに天下を仕切れる男は
信幸と言っていたよね。

152: ふぉりなーず
昌幸は博打うち。
関ケ原で東軍についても、自分の身代からいっても、多くの加増は見込めない。家康とはお互い生理的に合わないし。
ならば西軍に汲みし、大手柄(結果的に徳川本隊の足止め)たてて、一国賜った方が得策と考えた。
大坂入城は表裏比興だから無いといいきれない。なにせ過去に沼田城をいわれなく、召し上げようとした家康に対する怨みはそう簡単には忘れられない。
そもそも当時の徳川軍など武田軍制の一亜流に過ぎないと、この元信玄の小姓はたかをくくって小馬鹿にしている。
あと如水ほど純粋潔白ではないが、昌幸も軍略を好む面があると思う。「天下の兵を向こうにまわし、思う存分、己の軍略を使い且つ、知らしめたい」と考えていたに違いない。
家康に十数年も九度山に押しこめられ、怨みは骨髄で、自分もそう長くはないと考えれば、いまいちど、狸をギャフンと言わせるために大坂城入城もあるであろう。

160: ふぉりなーず
昌幸は猛将・飯富虎昌の孫、四名臣・山県昌景の親族そして智将・真田幸隆の子。信玄に11歳から側近として使え、兄二人設楽ケ原の戦で戦死し真田の家督をつぐまで甲斐の名門、武藤喜兵衛を名乗る。
まさしく名将になるべくして生まれた男ですな

163: ふぉりなーず
>>160
改めて見るとエリートだよな まさにサラブレッド。

202: ふぉりなーず
昌幸ってやる事が一貫してないんだよね。
武田→織田(滝川)→北条→徳川→上杉→豊臣って勝ち馬に乗るのが信条なくせに、
関が原では西軍に付くし。
家康嫌いって言われるのに、信之を家康にやるし。
正直、よくわからん人物だよな。

203: ふぉりなーず
>>202
徳川→上杉→豊臣は、勝ち馬に乗ると言うより
沼田を守るための方策だな。

205: ふぉりなーず
>>202
家康嫌いってより、領土保全のために足掻いてただけじゃないの?

206: ふぉりなーず
>>205
第一次上田合戦の裏に隠れているが
それ以上の兵力差を同時期に
押し返しているんだよな。

346: ふぉりなーず
昌幸は小田原攻めの時、秀吉の陣内に家康とともに戦術、戦略を練っていた。
三遠駿の太守と信州の3万石大名が対等に議論していたのだ。
これをみても昌幸のすごさがわかるだろ?

349: ふぉりなーず
>>346
小田原攻めは北条が真田の名胡桃城を奪ったことがきっかけでしょ?
当事者なんだから当たり前じゃないの?

425: ふぉりなーず
>>349
有名な話だね
これが昌幸のハートをがっちりつかんだらしく昌幸は秀吉に忠誠を誓うようになったと
ちなみに昌幸は九度山に配流されてもなお秀吉の銅像を拝んでいたという逸話があるくらいだら
死ぬまで秀吉に感謝していたのではないだろうか。

427: ふぉりなーず
>>425
銅像じゃなくて画じゃなかったっけ?
配流先で朝夕拝んでたってやつだな。

432: ふぉりなーず
>>427
その話を聞くと意外と昌幸って義理堅い人間なのかもね

433: ふぉりなーず
>>432
利でつきあおうとする人間とは利でつきあい
義でつきあおうとする人間とは義でつきあう

351: ふぉりなーず
名胡桃城を襲わせた真田の昌幸の謀略に対して、表立って褒美を上げる訳に
いかないので、御前で大大名と共に軍議に参加する栄誉をもって代わりとした。・・・ってのは真田太平記の設定だっけ?

354: ふぉりなーず
>>351
そうねえ・・・沼田を北条に、でも名胡桃城以西の上野は真田に、という裁定は秀吉自身が下したのだから、
それを破るように調略したなら真田だって気に入らない奴ということになる。
家康あたりに言えば、いつでも捻りつぶしてくれるのにしなかったわけだからねえ・・・。

353: ふぉりなーず
布陣図を家康と一緒に見せたんだそうな。
所領をどれほど貰うよりうれしいとか何とか言ったとか、どっかで読んだ。
昌幸と秀吉は馬があったみたいで、よく碁なんか打ったみたい。
どうも昌幸の方が強かったらしく「おまいの碁は負けないようにばかり打ってる、信玄坊主の戦みたいだ」
とか言われたらしい。

483: ふぉりなーず
昌幸、内政面では平凡だったろうけど、外交手腕は優れてたでしょ。
それを政治で一括りにするからおかしくなる。

539: ふぉりなーず
昌幸は戦術だけでなく、かなり頭のきれる人ですな。
というのも真田家は関ヶ原合戦前に2つに分けられてるんですね。
具体的にいうと真田昌幸(西軍側)真田信幸(東軍側)っていうように
なってます。敵味方に分かれたんですね。これは関ヶ原での勝敗がどっちにころんでも
家が残るようにっていう事ですな(-_-)ノ

569: ふぉりなーず
秀忠軍は小諸で軍資金の枯渇(沿道の住民に輸送を手伝わせたりするための)で
4日も足止めくってるんだよね。
真田が何もしなくても関ヶ原に多分間に合わない。
真田が2日でも足止めすればさらに絶対間に合わない。

571: ふぉりなーず
>>569
それは今現在の我々が、関ヶ原の合戦が一日で決した事実を知ってるからこそ言える事ではないの?
黒田如水なんかは長期戦になると予想して活動してたでしょ

576: ふぉりなーず
>>571
逆だな。
兵力で勝っている方が勝利の確率が高いのは常識。
ましてや、西軍の布陣は完璧。
つまり、ほんの数日でも秀忠を遅らせる事が出来れば
その間は西軍が有利であって、西軍から仕掛けて
勝負を決めてしまうのに丁度良いのだよ。
有利なうちに短期決戦で決めるためにこそ昌幸が活きる。まさか味方の半分以上が参戦しないとは思わなかっただろうがw

587: ふぉりなーず
ていうか、
1 秀忠は兵の数にたよりすぎ、昌幸の知略をなめていた。
2 秀忠は知略が低い、用兵がへた。
この2つで十分、上田城の一件はかたづくw

614: ふぉりなーず 投稿日:2005/03/29(火) 00:35:25
如水殿の件だが
短期決戦を予想していたのなら、わざわざ遠い九州でハンズを広げるような真似はしない。
秀吉の軍師であった如水ならなおさら。西軍が一日で負けた後、如水の態度が一転してい
るところが裏づけしてある。
長期決戦を予定してあるからこそ、九州を併呑した後、機内へと向かう道を考えたのだろう。直江兼続(話に関係は無いが
彼をはじめとする。上杉勢は、120万石の太守でありながら関ヶ原へ向かわなかったのは、紛れも無く
長期戦予想なのだろう。伊達や最上がけん制していたということもあるだろうが。そして真田
彼も長期戦を予想していたのではないか。彼の場合も、秀忠の膝元には本田正信ら、有能な部下がいるため
いつまでも、大軍を引き受けられないのは分かっていたはずだ。
だが、将軍が途中で関ヶ原へ向かった後も、上田の押さえをおかなければならないことを考えると
真田勢2000強に対し、徳川もそれ以上の押さえを置かなくてはならない。
戦場において、関ヶ原のような十万近くの戦いでも、それだけの軍勢があるのとないのでは
また、違ってくる。
さらに、上田で敗戦といえばそうなるような結果を残した秀忠軍は当然、「焦る」
上田での一戦で士気が下がっている徳川軍に、関ヶ原への急行という、身体的疲労も重なる。
3万の軍勢が、心身ともに弱っている。戦は数よりも勢いである。このような軍が布陣して、
混乱し壊滅でもしたら、他の部隊にまで影響が出る。
それだけの効果を見越した上での篭城ではないだろうか。
∴自分は上の軍師たち全員長期戦予想をしていたのではないかと思う。
10万対10万のような戦が短期、少なくとも一日で終わるなどという予想
など、たつものだろうか。

645: ふぉりなーず 投稿日:2005/04/16(土) 05:18:42
その通り、関ヶ原時は長期戦になったとしても西軍が徳川倒せば助かるわけだし望みは十分、
しかし普通に渇頼かくまえば滅ぶまで城を攻めるは間違いない、それにたよれる援軍もないのに勝機ある?
渇頼と信長が史実よかほんの少し長生きするだけだよ
そして真田昌幸は自害!真田の勇名はこれ以降なくなると

646: ふぉりなーず 投稿日:2005/04/16(土) 10:54:07
昌幸が勝頼を岩櫃城に迎えようとしたのは、同盟国である越後上杉氏や海津城の高坂弾正
からの援軍が期待できるからだろう。
時間が稼げれば外交交渉で和睦するなり、上杉や北条の元に落ち延びさせて匿って貰うなり
選択肢が増える訳だからな。

742: ふぉりなーず 投稿日:2005/05/13(金) 18:18:12
関ヶ原の戦いでの昌幸の戦略はやはり間違っていたのだと思う。
第一に加藤清正が三成の意見と対立したことだけで、寵愛された
秀吉の本家を担ぐ西軍を離れるかどうかということを念頭におき、
豊臣家の養子から追放された秀秋の寝返りを予測し、東軍につく
べきだったと思う。西軍への布石は幸村一人で十分。

745: ふぉりなーず 投稿日:2005/05/13(金) 19:31:54
しかし、このおっさんで戦術能力は高いんだけど、ずっと小領主のまま
なんだよな。よっぽど政略能力がなかったのか、それとも、全然信用
されない性格だったのか。

751: ふぉりなーず 投稿日:2005/05/13(金) 23:53:55
>>745
だって勝馬に乗ってないじゃん。

755: ふぉりなーず 投稿日:2005/05/14(土) 08:53:15
>>751
そーいや、常に負け組だな。戦略眼がないのか。

756: ふぉりなーず 投稿日:2005/05/14(土) 09:41:52
>>755
同意。
西軍ついたのは情実だという考えもできるし。
まあ、一応戦国最後まで生き残ったので最低限の
能力はあったということでしょう。

757: ふぉりなーず 投稿日:2005/05/14(土) 09:55:22
>>756
結局のところ戦術屋ってことなんだろうな。
戦術屋は戦うと負けないって自負がありすぎて、それに頼ってしまう。
だが、実際には局地的な戦術能力では、家は大きくできないからな。

760: ふぉりなーず 投稿日:2005/05/14(土) 10:31:35
>>755
負け組みっていうか、武田が滅びて以来異様に独立心が強くて、
どこかの有力大名の傘下に入ってそこで身を立てようって発想をしないんだよね。
おかげで豊臣政権下でどこかの陪臣ではなく独立した大名となれたんだが。あと、関ヶ原はオッズのいいほうに多めに賭けていたって感じだろうか?
非常に投機的な生き方をしているように思う。

762: ふぉりなーず 投稿日:2005/05/14(土) 11:03:29
>>760
そりゃ、徳川傘下になったと思ったらいきなり「沼田を北条にくれてやれ」じゃ、上に人がいるとろくでもないことになる、
って思うわなぁ。関ヶ原は、徳川方の大儀は「君側の奸を討つ」で対三成だったから上杉征伐に帯同した豊臣恩顧の勢力が荷担したん
であって、もし大垣城あたりに秀頼が出てくるようなことがあったら総崩れの可能性だってあったし。
結果が分かってるから東軍が勝って当然に見えるかも知れないけど、実際のところけっこう微妙なところだったし。徳川女婿で嫡男の信之を東軍に、豊臣に恩顧があり現当主である自分が西軍で勝った場合跡を継ぐ息子(信繁)も西軍
で筋が通ってる。
これで、昌幸まで東軍に与してしまうと真田一党は東軍と言うことになってしまって信繁は個人的に西軍に付くってことに
なってしまう。そうすると西軍が勝った場合、真田家としては潰れるだろうし、もし仮に信繁が再興したとしても家勢の衰え
は否めないし、豊臣家臣団の中でも外様に置かれてしまう。
どっちに転んでも安全なのは、昌幸が選んだ道だね。結局、真田家は存続したわけだし。

764: ふぉりなーず 投稿日:2005/05/14(土) 11:14:53
>>762
結局のところは、戦略眼がないんだよ。つうか、政治・政略がわかってない。
家康の西軍切り崩しがどこまで進んでいるか把握する能力がなかったんだろ。
同じような相場氏の鍋島直茂は、最初は悩んだが、すぐに西軍の脆弱性を掴
んで家康についたしな。
結局、丁半どっちをつけるか判断する能力がなくって、二股かけた。それで
生き残ったのは、それなりに見事だが、その功をどっちかっていうと、長男
が上手くやったってのが実際だろう。

766: ふぉりなーず 投稿日:2005/05/14(土) 11:24:17
>>764
僻地の小大名で終わるよりは、一か八かを選んだんじゃないの?
それに長男を徳川家につかせるあたり、どっちが勝ってもお家は続くし。

800: ふぉりなーず 投稿日:2005/05/15(日) 21:31:42
勝ち目がないのならだれも西軍に加担しないと思うが・・・
少なくとも内情はどうあれ数の上では西軍が勝ってたしなぁ・・・俺の中で昌幸は「その小身に有り余るほどの大望を抱いた謀将」ってイメージがあるから、
昌幸は勝ち目は薄いと見ながらも、賭けにでたんじゃないのか?、と思う。
・・・というよりそうであって欲しい・・・

803: ふぉりなーず 投稿日:2005/05/15(日) 21:43:40
>>800
別に勝ち目の薄い方に賭けたんでもいいけど、情勢判断は決定的に
間違っていたといっていいな。徳川主力、38000を関が原に
参加させないでいながら、自陣営は負けてしまっている。
つまり、先の見通しは完全に誤ったわけだ。
で、それを見越して賭けたとはとても思えないけどね。

804: ふぉりなーず 投稿日:2005/05/15(日) 21:46:23
>>803
何負けてんねんとオモタやろね・・・

引用元: http://www.logsoku.com/r/2ch.net/warhis/1087314310/ 【表裏】真田昌幸【比興】

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